「反対できる空気ではなかった」戦後の東京裁判で被告席に立った軍部の幹部たちの言葉である。現代でも「空気」が社会、企業、学校に満ちている。さらに「空気の読める人」が重んじられ、「空気の読めない人」や「空気にはむかう人」は、まわりから疎んじられる始末である。空気とは何だろう。物事、モノとコトの背景に日本人は気配を感じる民族だ。石にも樹にもカミが宿っている。その気配の陰に、カミ、モノノケが宿っているのだ。コト(コトバ)に宿るモノノケの一例として「清潔」がある。病気を防ぐために清潔であることは重要である。戦後「清潔」が叫ばれはじめた頃には、その根拠として科学的な根拠が示されたが、その内に「清潔」が一人歩きし始める。気が付いた頃には絶対的な言葉としての「清潔」となる。言霊となった「清潔」は、もう一つのカミである。「清潔」という一般的で相対的な概念であったものが、特殊記号的に絶対化してしまうのだ。こうなると「清潔」を否定できない空気ができてしまう。したがって、これに対立する「不潔」は絶対の悪になってしまうのである。時代の常識が立ち上がる。このようにして世の中には多くの神々(モノノケたち)が跋扈しているのである。環境問題の社会的流れ、公害から地球温暖化、エコロジー、エコへと変化しながら漂う言葉たちなどが「空気」をかたちづくった例は多い。現代では「エコ」が主流でもう「公害」とはあまり言わなくなった。一時は絶対化して空気となったカミやモノノケも時間の経過にしたがい別のカミやモノノケに変化している。空気に支配されることは、日本の多神教文化の問題点であるといえる。