気が付いたことがある。その日は、庭に出て降りしきる雨を眺めて過ごした。あまだれの動きをじっと見ていると、水はモノであるとともに、記号的でもあり、重たい空気でもあるような気分にとらわれた。その光景そのものが、こころを満たすクオリアであり、視覚や聴覚などの五感だけでは表せない時空であった。その光景の全情報は身体を満たし無意識に取り込まれるのだ。無意識は、この錯綜した情報すべてを取り込み、しかるべき処理を加え保存しているのだろうか。つまりボーとしていることはすごいことかもしれない。
曖昧でとりとめのない世の中の動きやこころの現象は、光は粒子であると共に波であり、モノの位置は特定不可能など、曖昧さを核心としたミクロ世界の量子論と似ていると思えた。一般的には、現象には原因と結果があり、分析により本質を究明、法則の発見に至る。これにより世界を合理的に捉える。というのは常識的見解である。しかも、この見解は、意識中心主義的なものである。もっと無意識領域から世界をとらえるべきではないだろうか。本当のところは、もっと曖昧でアバウトなものかもしれない。脳内の無意識領域で営まれているニューロン・ネットワークは、数字や言語のような記号的な構成ではなく、2進法的なコンピュータ処理とは異なり、その処理の形態は分子レベルでアナログ的であり曖昧を本質としていると思われる。啓示と呼ばれたり直感と呼ばれるような認識は、無意識領域で、先ほどのクオリア体験などの多様で微細な情報が絡み合って答えを導き出し、それを都合良く記号化して意識に受け渡しているのではないだろうか。
仮にそうだとすると、本論の仮説は、カミとは森羅万象からやってきた無意識内に宿る特異情報であった。特に森と海を中心とした多神教文化で育ったこの列島のヒトにとってカミとは、例えば脳内の無意識をOSとすると、「困った時のカミ頼み」のための脳内アプリであるのかもしれない。さまざまなキャラクターをもった脳内アプリ「カミたち」が、ヒトの人生と関わって協働する。カミとは、タマであり精霊である。精霊は情報であり、情報はエネルギーであり、宇宙であった。さらに心を持って生きているヒトもタマである。したがってヒトは物質としての身体を持った情報なのかもしれない。