日本人にとってカミとは、「おてんとさま」のことであった。今風に言えば「太陽であり大自然」のことである。日本人は日頃の挨拶で「今日はいいお天気ですね」とか「蒸し暑いですね」とか天気の話をよくする。一神教の神(キリスト教ではGOD)とは、全知全能で完全無欠なこの宇宙を作った存在のことである。もちろんこの神は宇宙に一人しかいない。それに対して日本のカミは、この宇宙のあらゆるものに宿るカミである。その全ては「おてんとさま」につながっている。晴れの日もあり、嵐の日もある、これが「おてんとさまに顔向けできない」のそれなのだ。もともと日本のカミさまは、言葉に宿っても言葉とは無縁の存在だった。したがって経典、聖書の類いはない。キリスト教のように「はじめに言葉ありき」の欧米的な宗教ではないのである。カミは言葉なくして感じるものである。カミを祀る日本の芸人や職人たちには言葉はいらない。さらに言うと、日本においては仏さまなど外来の神々は、すべて古来からのカミの一種であり明治以前の神仏混淆の時代では同じものだった。つまりカミと神は別物と考えるべきなのだ。同じ呼び名が混乱を招いている。カミの代わりに、日本古来のタマと呼ぶべきかもしれない。森羅万象に宿るのもタマだし、先祖の例もタマである。その全てをまとめると「おてんとさま」なのだ。今風に考えてみると森羅万象にはヒトにとって脅威となるものや、意味不明なおかしなもの、怖いものがあって、それらをヒトの知覚は、不可思議なものとして脳内の無意識領域に特異情報としてタマを取り込んだ。その特異情報は、無意識の中で他の情報と組み合わされ人生上の問題解決の手助けをしてきた。タマもカミも脳内情報であったのだ。ヒト自身も「私というタマ」が宿っている存在だとすると、その内なるタマと、外から宿ったカミとの共同作業が、カミのご利益(ごりやく)ではないだろうか。タマとカミとの共同作業がカミのご利益とすると、日本の独自性とは、ヒトとカミとのコラボレーションが、創造の基盤となっていることを示すものであり、これはもしかすると大きな未来の可能性かもしれない。そして人間版「おてんとさま」とは、1700年、綿々と存続した天皇のことなのかもしれない。
暑い夏の日、生駒山の石切神社でお百度をする人達を見て、ふとそのようなことを考えていた。
参考:GAIA PRESS