ミラーレスカメラとインターネットとクールジャパン

このWEBサイトの風景写真は、ミラーレスカメラによって撮影されている。長年、愛用したアナログの一眼レフカメラに慣れた眼には、このミラーレスが大変斬新であった。筆者はこのファインダーを覗いた途端、直感的に納得、すぐに購入したのだった。写真を撮ることはリアルを追い求めることと決めていた筆者には、フィルムの銀粒子の濁った曖昧なトーンにリアルを感じていたのだが、ミラーレスの巧妙に設えられたファインダー画像にもリアルを感じたのだ。カメラ製作者の意図は、撮影された写真そのものがファインダーで見えることだ。だが、それは同時に肉眼で見たままであると思っている風景が、実は脳が巧妙に加工した風景であったことを気付かせてくれたのだった。リアルだと思っていた私の理解の仕組みそのものを、ミラーレスのファインダーが表現していたからである。そこには、一眼レフのペンタプリズムによって外界がダイレクトに投影される仕組みはもうないのだ。ミラーレスのファインダー画像は、カメラに組み込まれたソフトウエアにより自在に演出されている。実は、人間の視覚と同じ構造なのだ。人間の視覚も脳内の無意識領域で再加工された画像を意識がリアルなものとして見ていたのだ。それならば、アナログの一眼レフよりミラーレスの方がすぐれているのではないか。それが購入理由であった。現代は目を最優先にした文明である。スマートフォンの爆発的な普及により何十億人ものカメラマンが日常を撮影している時代となり爆発的な数の画像が、表象となって地球を覆っている。 

 

インターネットがあらわれてすでに四半世紀が経過した。当初よりその仕組みそのものが現代的であった。テレビ、新聞などのように中央集権的ではなく、個別分散的な竹藪(リゾーム)構造なのだ。さらにSNSに見られるように双方向である。パソコンと電話付きパソコン(スマートフォン)の普及と相まって随分、ヒトのコミュニケーションの質が変化している。とりわけインターネットの特徴は、すでに大きな物語が消えていることである。古典的な世界では、大きな物語は社会から供給されていた。ヒトはそれをテコにして社会や人間を理解した。しかし、インターネットは、大きなデータベースである。ヒトは検索しながら各自が小さな物語を紡いでいく世界になったのだ。 

 

さらに東アジアの辺境の地、日本からアニメ、漫画、ゲームなどの創作活動や、寿司、天ぷらなど和食文化が海外に広がっている。セーラームーンで育ったフランスの少女たちが来日する時代となった。50年前の日本では考えられないことだ。当時は、欧米文化に憧れ、日本は欧米のコピー商品だらけだった。偽物、安物と言われ、憧れを裏返せば田舎者の劣等感でもあったのだ。しかし偽物と揶揄されたものたちは、独自進化を遂げて、日本の田舎者文化は、本物、オリジナルを凌駕するまでになった。 

 

ミラーレスカメラ、インターネット、クールジャパン。一見繋がりのなさそうなものたちは、その根元で繋がっている。どれも1990年代が関係している。何が起こったのだろう!