プロローグ 遠山郷霜月祭り・瀧原宮
南信州伊那谷の東方、南アルプスの麓に遠山郷がある。まさに秘境と言ってもよい佇まいの土地である。遠山郷では毎冬、各地区の神社で霜月祭りと呼ばれる湯立ち神楽がとり行われる。神社の境内にある神楽場で神官が大きな釜に湯を焚き、森羅万象の八百万の神、祖霊を招いて神々をもてなすのである。カミとヒトが夜を徹して魂の交歓を行う祭だ。
宮崎駿は、この神楽を知って名作アニメ「千と千尋の神隠し」の構想を得たと言われている。寒い冬に湯を炊いてカミや鬼、もののけを招いてご馳走を振る舞い、入浴していただきもてなす湯屋の物語。この奇想天外な着想は、アニメ作品として日本人だけではなく世界中での反響を呼ぶことになったのだ。現在の日本人にとっても珍しいこの神楽は、実は二つの点で日本らしさを物語っている。
一つは、この神楽がカミをもてなす「祭」であることだ。一般的な神輿が街へ繰り出す神社の祭もカミをもてなす行事である。湯を焚くことが湯立ち神楽のユニークな点だ。現代でも温泉に行きご馳走を食べることは日本人の定番の楽しみである。このようにおもてなしをすることでカミのご機嫌をうかがい、ご利益を期待しているのだ。
二つめは、湯が沸き立つお釜を中心に、カミやオニ、もののけ、先祖の霊が、神楽に集まった人々に声を掛けて廻ることだ。魂の交換が行われるのだ。このことを古い言葉では言祝ぎ(コトホギ)と言っている。この様子を見て、どこかで見覚えのある光景だと思った。それは、東北の被災地や、春と秋に皇居で執り行われる園遊会の席で天皇が人々に声をかける光景と同じではないか。
紀伊半島の熊野と伊勢の中ほどに元伊勢といわれる瀧原宮(伊勢神宮別宮)がある。夏の暑い盛りに訪れてみた。ほとんど参詣者はいない。森の入口にある鳥居を入るとヒヤッとした爽やかな風が吹いてきた。薄暗い参道はきれいに掃き清められており道の周りは原生林だ。鬱蒼とした巨大な杉の樹々の間を抜けて行くと右手の川筋に禊場がある。川の流れる音が心地よい。しーんとした道をさらに行くと本殿に辿り着く。時間が静止した景観にショックを受ける。なんと瀧原宮は伊勢神宮内宮とまったく同じ構造ではないか。内宮のミニチュア版なのだ。年を経た白木造りの小さな本殿が並び、白と黒の玉砂利が敷き詰められた聖なる場所、精霊たちが宿る森羅万象の風景がそこにあった。
生前の司馬遼太郎が、ほのかなアニミズムが感じられる場所、最も日本的な原風景として言い残して逝った瀧原宮の意味がよくわかる。司馬は宗教学者山折哲雄との対談で、日本文化、とりわけ日本人の宗教感覚を世界に伝えていくことが、これからの日本人の課題としながら「ほのかなアニミズム感覚といいますか、そういうわりあいいい感じの宗教感覚を生かして世界に調和を与えられれば素晴らしい」
「日本とは何かということ」司馬遼太郎・山折哲雄
と述べている。私には司馬がこの瀧原宮を思い浮かべながら話したのではないかと思えるのだ。日本人のこころの原点として 「ほのかなアニミズム感覚」を拠り所に、古い時代から現代までの日本人のこころのはたらきを探ってみたい。